佐々木駿くん広島の未来を担う小学生ガイドに挑戦!!

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今から79年前の、1945年8月6日広島に原子力爆弾が投下されました。
そして、その原爆によって 何十万人もの尊い命が失われたのです。
日本人として、決して忘れる事のできない辛く悲しい歴史です。
また、残された人々にも
今も尚、癒えることのない深い悲しみとなって心の中に刻み込まれているのです。
そうした状況の中でも、懸命に歩んでこられた道のりを思うとき
改めて、平和への願いは大きくなっていくのです。
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佐々木駿(ささき・しゅん)くんの挑戦!

原爆によって失われたものは、あまりにも大きすぎて

全てを取り戻すことはできないかもしれません。

けれど今、その79年前の悲しい歴史を経て
佐々木駿くん(小4)は
二年前から、広島を訪れた外国人観光客のガイドとして
次世代の日本の担い手となって広島の歴史を語ってくれています。
それは、
争いごとのない平和への強い願いを込めて懸命に挑戦しているのです。

原爆ドームの焼け崩れた姿を見て、駿くんは不思議に思い

原爆ドームについて調べ始めたのが、ガイドになるきっかけとなったようです。

そうして、広島の悲しい歴史を知る事となったのです。

調べていくにつれて、

駿くんの曾祖母もまた、原爆による被害者だと言うことを知り

その悲しみは、身近なこととして駿くんの心を捉えていったのです。

そして、駿くんの心の中で

平和への担い手となりたい…という強い思いへと搔き立てられていったのです。

ただでさえ、暑いこの8月に

高温と熱風と火災とによって

原爆は、一瞬で広島の町と何十万人もの人々の命を飲み込んでしまったのです。

当時の広島は、県外からも出稼ぎにきていた人達が多くいたことでも知られています。

その広島の惨状を聞いて、出稼ぎにきている家族や親戚の人たちは

居ても立っても居られず、着の身着のままで広島へ向かった…という話を聞いたことがあります。

そして、そこで見た光景になすすべもなく

気がついたら、夏の暑さと原爆による路面の高熱とで

履いていたゴム草履が溶けていたというのです。

結局、出稼ぎにきていた家族を見つけることはできないまま

帰路に就くことになったそうなのです。

 

ところで、

駿くんの英語力はいつから身についていったのでしょうか…?

それは、赤ちゃんのときから英語の歌などを聞いていて

自然と覚えていったようなのです。

本当に、素晴らしいですよね。

これからも、駿くんの平和活動を応援してゆきたいと思います。

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おわりに

最後までお読みいただきありがとうございました。



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